死にたい、という希望は叶えられるべきか

最近は、とにかく勧められたものは読むと決めていて、

いまは病理医ヤンデル先生がおすすめされていた、國頭英夫先生の「死にゆく患者とどう話すか」を読んでいる。

その中に「死にたい、という希望は叶えられるべきか」というテーマがあげられていて、これがわたしの悩みどころだ。このテーマは基本的には安楽死尊厳死を扱っていて、終末期ケアについての話なのだが、わたし自身の死にたさとの向き合い方とも関連があると感じている。

わたしは、「死にたい、という希望は叶えられるべきだ」とは思わない。それは「死にたい」という感情は変化しうるからだ。

実習で緩和ケア科の病棟を回ったときに、先生がおっしゃった中でとても心に残っている言葉がある。

「苦痛が続けば、死にたくもなるよね」

という言葉だ。

死にたさは苦痛に起因する感情だ、ということ。

逆に言えば、苦痛を取り除けば、死にたさはなくなる(または軽減される)可能性が高いということだ。

緩和ケア病棟では、まず疼痛のコントロールをする。必要十分量のモルヒネを使って、疼痛や呼吸困難感、腹部膨満感を取り除く。また心理士さんを中心に看護師や医師も協力して、心理的な苦痛も和らげる。

これによって、ここに来るまで死にたいと願っていた患者さんが、穏やかな表情を見せていた。死にたさは、(身体的・精神的な)苦痛を取り除く(和らげる)ことにより軽減させることが出来るものなのである。

だから、わたしは死にたいという思いは基本的には叶えられるべきでないと思う。その前に医療者がすべきことは苦痛の除去である。(「自分らしい死に方をしたい」はまた別だと思うけれど、それは「死にたい」とは似て非なるものだ。)

さて、これは死にたさを慢性的に抱えるわたしにとっても同じことだと思う。わたしにとって死にたさは、過去の苦痛によってもたらされた不変の固形物であって(もちろん多少の波はあるけれど)、わたしの心の奥に鎮座しているものであった。どうせなくならいのだから、死にたさとどう向き合うか、というところをずっと考えてきた。

でもこの先生のお話を聞いて、その考え方は大きく変わった。死にたさは、あくまで感情であって、苦痛という刺激によってもたらされた一時的な反応にすぎないのだ。

苦痛というのは、たぶん体調や周りの環境からのストレスなのだろうけれど。同じ環境にいても、わたしだけが死にたくなるのは、過去に自分が受けてきた大きな苦痛が常に自分を刺激しているからなのだと思う。

では死にたさをなくすためには、いまの自分になにが出来るのか。

これはまだ答えが出ないけれど。

⑴過去からの持続的な苦痛を除去すること

⑵今抱えるストレスを減らすこと

この2つなのだと思う。

⑴については、ずっとずっと考えているけれど、正直どうすればいいのかわからない。考えてもわからないから諦めてきたのだ。だからここは保留にするしかない。

問題は、⑵だ。過去を言い訳にして、今ラクをするのは嫌だとずっと思っていた。だからどんなに死にたくても、ストレスから逃げないようにしようと思っていた。(実際にはがんばれなかったことが多いのだけれど、気持ちのうえではがんばってきたつもりだ。)

けれど、⑴が難しいのであれば。今少しラクに生きてストレスを減らすことは、死にたさを軽減させるうえで効果があるはずだ。すべてを過去のせいにするのではなく、今どうすればストレスから少しでも逃れられるかを対症療法として、前向きに考えるのも手なのかもしれない。