ありのままの自分とはなにか⑴
自己受容という言葉についてずっと考えている。
おおよそ「ありのままの自分を認める」「弱い本当の自分を知って、ゆるす」というような言葉で噛み砕かれているけれど、なんだかしっくりこない。
「ありのままの自分」ってなんだよ。
「本当の自分」ってなんだよ。
「本物の〇〇」なんてものは絶対に、誰にも知ることができない、とわたしは思っている。見る、知るという動作には必ずフィルター(身体性、環境因子、それまでの人生において形成された価値観など)がかかるからだ。同じリンゴを見ていても、私が見ているリンゴと、あなたの見ているリンゴは違う。私には私の、あなたにはあなたのフィルターがかかっているから。そして、それを外すことができない以上、「本物のりんご」を知ることはできない。
だとすれば。「ありのままの自分」「本当の自分」も知ることができない。誰かに尋ねたところで、それは「〇〇さんから見た自分」でしかないからだ。自分自身だって「自分自身から見た自分」しか分からないのだ。
じゃあ自己受容とはなんなのか。
わたしは
自己受容=適切な自己認識+適切な自己評価
なんじゃないかと考えている。
「適切な」というのが難しい。
「正しい」とか「正確な」とかではない。
(「正しい」自己認識なんて出来ない。これはさっき述べたことである。)
「適切な」には
①自分の周りで起こっていることとの因果関係がだいたい説明できる(納得できるストーリー)
②場面に応じて変えられる
という意味を込めたつもりだ。
長くなりそうだし、この辺で1度終えます。
また続きは今度。